韓国朝鮮と日本
簡単にまとめています
韓国人の性格
Categories: 社会

韓国人全員が同じ性格というわけでは、当然無い。だからここでは本来、”気質”とか”性分”、”気立て”と言ったほうがよいかもしれないが、わかりやすくするために、あえて”性格”というタイトルを付けさせていただいた。

① ナ・ニム・ノム

韓国語で、「私」・「僕」・「俺」は「ナ」という。
つまり「ナ」は「我」、自分のことを指す。
目上の人の前では「チョ」というが、ここでは言語の話ではなく、心の内面の話をするので、「ナ」で通すことにす
る。とにかく、韓国語の話をするわけではないので、もう少し辛抱して軽くお読みいただきたい。

「君」は「ノ」という。しかしこれは、英語のyouとは少し違う。
年齢が同じとか、同格の人にだけ使う。だからyouより範囲が狭い。韓国は、とにかく格上・格下で人を見る決まりがある。

では格上の人はなんと言うかというと、「ニム」という。これは「様」と訳される敬称だが、日本のように誰に対してでも使うものではなく、主人の「主」を意味する。たとえば、目上の人に対して「社長ニム」のように使う。牧師や教師は、自分にも「ニム」をつけて呼ぶ。
日本でも教師が自分のことを「先生」ということがあるので、ここまではなんとなく日本人でも理解できる。

格下の相手をなんというか。これは「ノム」である。「ノム」は「野郎」「奴」と訳されるが、韓国語講座のようなサイトにはあまり書いていないようだ。いい言葉ではないからか、二人称ではないからだろう。

ノム(奴)は軽蔑すべき相手に対して使う。
韓国人的な軽蔑とは何か。自分よりも道徳的に劣った人間のことである。
この辺からやっと、韓国人の性格、気質の話に入っていけるだろう。

ノム(奴)には、「愛のノム(奴)」と「憎しみのノム(奴)」があるという。子どもや部下、後輩には、愛のノム(奴)。これは親しみのこもった意味でのノム(奴)である。「かっこいい奴」(モッチン ノム)などもそれかもしれない。
憎しみのノム(奴)は、侮蔑する意味で使う。「ナップン ノム」(悪い奴)がそれに当たる。

いずれにしても、大なり小なり自分より道徳が劣っている(とされる)存在に対して使う。

ところで、韓国人の思う道徳は、日本人とは少し違う。韓国人は、儒教的な道徳なのだ。
儒教的な道徳を簡単にいえば、清廉潔白であること、国と先祖を愛すること、また学歴が高いことなどだ。

道徳の高さは、韓国では最も重要な尺度となる。では、それだけ韓国人が道徳的な生き方をしているのかといえば、そうとは限らない。道徳が高いように見せる、振る舞うことに全力を傾けるのだ。

社会的に上位な「国会議員二ム(主)」が、賄賂をもらっているのがバレれば「国会議員ノム(奴)」になってしまう。バレなければ当然ニム(主)のままでいられる。

頭をつかう職業についていることや、年齢が高いということも、道徳が高いことにつながる。だから運転手は「運転技師」というし、国の歴史も半万年(5千年)という。

逆説的に言えば、韓国では、他者の不道徳性をうまく追及できれば、相手をノム(奴)にできる。そうすれば、自分の地位も上昇できる。だから必然的に、攻撃的になる。

人間関係において、格下のノム(奴)は、封じ込めなければならない存在だ。
ニム(主)はノム(奴)を抑圧するべきであるとされる。また、ノム(奴)を利用するべきであるとされる。なぜなら、そうすることによってのみ、ニム(主)も存在しうるからだ。

だから、下のものに対するイジメが横行する。家庭内で父親が子供に対して虐待をすることも多くなる。ニム(主)の支配する空間にノム(奴)を閉じ込めなければならないからだ。だから逆に、ノム(奴)に過剰に優しく接する時もある。どちらも目的は同じなのだ。

韓国では、ニム(主)の発する言葉は、マルスム(お言葉)と呼ばれる。マルスム(お言葉)は道徳性の高い内容とみなされる。だから、絶対的な支配力を持つ。

マルスム(お言葉)を拒絶したり、否定することは許されない。道徳を否定することになるからだ。

 

韓国で代表的なノム(奴)は誰か。それは日本人である。日本人というだけで、韓国人より格下なのだ。

ただし、日本人観光客の多い地域では、日本人に対して「愛のノム(奴)」で接してくれる。また、日本人でも、お客さんならば、ニム(主)になるのが最近の傾向だ。だから日本人旅行者は、自分が格下扱いされていることに気づかない。
それ以外の面では、日本は憎しみのノム(奴)だ。抑圧したり、利用する相手だ。
道徳的に劣って、文化的に取るに足らないとされるからだ。
日本には良い文化もあると見なされることもあるが、残念ながら、それらはすべて朝鮮起源だと信じられている。

韓国は日本よりも上位者のニム(主)であるから、上位者の役目として、ノム(奴)の日本を教育してやらねばならないと常々思っている。
ノム(奴)は道徳が低いからノム(奴)なのだ。
だから日本も、自国の劣等さを悟り反省すれば、道徳を高めて地位を上げることができそうだと思われている。しかし、韓国よりも上にいけるわけではない。

逆に、これ以上韓国人の道徳に合わないこと(韓国を愛さないこと)を続ければ、ノム(奴)より下の動物になるか、天罰が下ると思われている。

 

ニム(主)の発する言葉は、マルスム(お言葉)だと言ったが、ノム(奴)の発する言葉はソリ(音・声)と呼ばれる。鳥の鳴き声のような、単なる音波であって、言葉ですら無いとされる。
ソリ(音)ばかり言ってると「妄言」となる。

日本ノム(奴)の政治家の「妄言」は、うるさい音であるだけなので、韓国人は分析するつもりはない。ただ腹を立てるだけである。

韓国人であっても、道徳性の含まれない発言をしていれば、それはソリ(音)になって、無視され消えてしまう。

だから、コメディアンでもネットの書き込みでも、無視されたくないときは、道徳性を含める。だから、祖国愛や反日発言を織り交ぜる。

 

韓国で代表的なニム(主)は何をしている人だろうか。それは「より偉い人」である。
父親、上司、先輩、職業なら政治家、教師、牧師、社長などだ。
テレビドラマの影響で、広告プランナーやテレビのプロデューサーも、現代のニム(主)と呼ばれる人となった。
若者が憧れる職業の人はニム(主)化する。

かつて女性はニム(主)になれなかったが、徐々に女史ニム(主)になった。そして遂に大統領になった。大統領は道徳を完成させた存在とされる。
店員から見たお客さんも、病院の患者さんも、90年代以降にニム(主)になったという。
今や韓国は、みんながニム(主)になりたい時代になったからだ。だからみんな、相手をノム(奴)にしたいのだろう。

 

② ウリ・ナム

韓国語で「ウリ」は、「私たち」・「我ら」・「我々」の意味。
日本語の「我々」よりも強い意味を持ち、使用頻度も非常に多い。
この「ウリ」は単なる言葉ではなく、韓国の社会構造そのものと言える。

「ウリ(我ら)」の中心は「ナ(自分)」である。
日本人からすると、これは自分本位にも思えるが、主観が「ナ(自分)」だから当然ということなのだろう。
その中心の周りに、ノ(同格)・ニム(格上)・ノム(格下)の人物たちを含める円がある、と考えれば良い。それが「ウリ(我ら)」となる。
「ウリ(我ら)」の基本単位は、やはり家族あるいは血族ということになるが、それと同時に、この「ウリ(我ら)」の適用範囲は、拡大したり縮小したりできるのも特徴である。

次に、韓国語で「他人」は「ナム」と言う。「ナム(他人)」は、「ウリ(我ら)」でない人。
「ナ(自分)」と関係がない人が「ナム(他人)」。

韓国の伝統社会では、人々は「ナム(他人)」に対して無関心だった。「『ナム(他人)』は死のうが生きようが」と言われていた。ほんの十数年前まで、韓国人は、道路や電車の中で人と肩がぶつかっても、足を踏んでも、誰も謝らなかった。
もちろん失礼なことなのだが、そもそも「ナム(他人)」に礼儀関係は存在しないのだ。
いやむしろ、礼儀を成立させてはならない。礼儀を成立させた瞬間、「ナム(他人)」は「ウリ(我ら)」の一員となってしまうからだ。
だから、気づかない無関心ではなくて、意識的な無関心なのだ。
これは、血縁による「ウリ(我ら)」が極度に重要視された反動だといえる。

この「ナム(他人)」に対する無関心は、国民国家を形成する上で、大きな障害であったのは想像に難くない。
国家は、近代化と並行して、「国民としてのウリ」を凝結させるために、「結束すれば生き、散らばれば死ぬ」などの精神改革キャンペーンを強力に推し進めたという。今でもこの言葉を知っている人は多いはずだ。

だから当然、「ウリ(我ら)」はナショナリズムとつながることになった。
北朝鮮を含んで、朝鮮民族全体で「ウリ(我ら)」とするときもある。
この「ウリ(我ら)」もまた、結束であると同時に、排他的でもある。

「ウリ(我ら)」の範囲は拡大縮小できるから、企業という共同体の「ウリ(我ら)」もある。
また、「国民としてのウリ(我ら)」ができたからといって、「ナム(他人)」が居なくなったというわけでもない。

いまだに他人の足を踏んでも、いや何をしようが謝らない人は多いようだ。
「ウリは文化国民です。公衆道徳を守りましょう」などという標語によって、大きな「ウリ(我ら)」を意識させなければマナーは広まらない。
韓国人が旅行先や移住先で傍若無人な振る舞いをしたとしても、彼らからすれば「ナム(他人)」なのだから、罪悪感はない。

現在は韓国も核家族化が進み、血族としての「ウリ(我ら)」の結束力は弱まった。
その代わりに、社会が家族の役割を果たす。つまり、隣人を含めた「ウリ(我ら)」だ。
「ナム(他人)」を家族化することによって、「ウリ(我ら)」化しようとする働きである。

また、80年代までは、商店は客を「ナム(他人)」として扱ったが、90年代に入ると、客を「ウリ(我ら)」として扱う店もでてきた。
ソウルオリンピックの際、外国人観光客に対して店の店員のマナーが悪いのを、政府が改善しようとしたのが原因だろうが、こんなところにも「ウリ(我ら)」と「ナム(他人)」で意識する必要があったのだろう。

「ウリ(我ら)」の中では当然、遠慮なしの親切心や思いやりがある。いい時代になったじゃないかと思われるかもしれないが、しかし同時に、「ウリ(我ら)」よりも「ナ(自分)」優先の時代が始まってしまうのだった。
もともと、「ウリ(我ら)」の中心は「ナ(自分)」であるし、強く自己主張しなければならない社会ではあったが、さらに自分を優先する風潮が出てきた。
消費社会の中で、家族向け商品より個人向け商品が増えたせいもあるだろう。
特に女性たちが「ナ(自分)」を強く主張するようになったという。

このようにして、現在の韓国の「ウリ(我ら)」は、「ナ(自分)」によって、かつての強い絆をほどかれつつある。
それと同時進行で、「ウリ(我ら)」が拡大できる範囲は、より自由に広がれるようになった。最大規模で考えれば地球人は皆「ウリ(我ら)」かもしれない。
ただし、「ウリ(我ら)」の中では礼儀秩序が必要になる。たとえば、格上の「ニム」に対して尊敬語を使わなければ、「ウリ(我ら)」共同体の破壊者として、周りから全否定されてしまう。
だから韓国人は、周りの人間を、自分にとって「ウリ(我ら)」なのか「ナム(他人)」なのかを識別し続ける必要がある。それも瞬間的に、無意識的に。

③ 理・気

韓国人に対する印象は、人によって驚くほど変わる。
ある人は良いことばかり。たとえば、韓国人は礼儀正しい、韓国人は陽気だ、韓国人は人情がある。
逆に、悪いことばかりいう人もいる。韓国人は礼儀を知らない、韓国人は暗い、韓国人は冷酷だ。
これだけ相反してしまうのは、場面が違うからである。

旅行中に韓国人と出会うのは、「気」の場面が多い。「気」とは気功法の気と同じで、肉体や感情の側をいう。

市場や観光地は、気分が重視される「気」の場面だ。
旅行者が「気」の場面だけを見て、「韓国は優しくてルーズでおおらかだなぁ」と考えると、大きな誤解となる。
なぜなら、「気」の場面の他に「理」の場面があるからだ。

「理」とは何か。道理、理念、理性、理屈のことだと思って良いだろう。これらに関連することとなると、韓国人は厳しくなる。「気」の韓国人は人情があるが、「理」の韓国人は冷たい。
「理」と「気」はもともと朱子学の言葉だ。
「理」は事物の法則性をあらわす概念なので、これに関する限り、韓国人は非常に頑固になる。

「理」か「気」かは、場所によって、プライベートか仕事かなどによって変わる。
また、相手の格を見て変えることもある。
だから、「日本にもいろんな人がいるように、韓国にもいろんな人がいるに違いない」という考えでは誤解を生む。
同じ人物でも、場面によって全く変わる。裏と表ということではない。両方が影響しあって存在している。

だから、韓国人について考えるとき、相手の立場に立って考えるのではなくて、場面で考えないと間違ってしまう。
友達同士の待ち合わせでは、約束の時間ピッタリに行くと怒られてしまう。時間にはルーズにしなければならないからだ。
しかし大学の授業に遅刻して行こうものなら、厳しく怒られ、しまいには除籍される。

韓国人は、場面に応じて「理」と「気」を使い分ける。
「理」の場面では、絶対に負けまいとする。だから、言った言わないの水掛け論に持ち込むこともある。

話の本筋とは関係のない話に持って行こうとすることもある。より自分に「理」のある話に持って行きたいからだ。
初対面でウソの経歴(ハッタリ)をかますこともある。自分に大きな「理」があると見せるためである。

「私は理にかなった人物ですよ。あなたよりも。」ということだ。

韓国人の「理」とは結局なんだろうか。それは時代によって変わるが、氏族の繁栄と国家・民族の繁栄は必ず含まれる。そして反日も含まれる。
単に日本を嫌うのは反日ではない。それは嫌日となる。反日は、上から目線で日本を批判し、圧力をかけることだ。
韓国が好きになりかけていた日本人も、これを知るとがっかりしてしまう。

「本当に反日が理なのですか?」と韓国人に聞いても「いいえ」と答えるだろう。場面を読むからだ。
ただ面白いことに、反日を振りかざす人たちでも、「もし日本に生まれていたら反日ではない」という。なぜなら日本が「理」の国ではないと知っているからだ。

「理」と「気」は裏と表ではないから、「理」の場面がいつも厳しいわけではない。いい「理」を持っている人は、いい「気」で優しくされる。

「気」が濁れば「理」が少なくなるとされる。
「気」は肉体に宿っているとされる。だから肉体を活性化させるために、韓国人は必死になる。体にいい=「気」にいい食べ物を多く食べる。味よりも補身効果を気にする。場合によっては野生動物の密猟もする。
すべての韓国人がこういうことをわかっているわけではないからか、「夏バテ防止」などと言っている。
「気」の”流れ”も気にするから、風水や先祖の霊を気にする。

韓国のことを「ケンチャナヨ」(大丈夫だよ)の世界だと思っている日本人もいる。ルーズで優しく楽天的なイメージだ。たしかに韓国人は「ケンチャナヨー」をよく使う。
しかしこれは「気」の場面で使う言葉。つまり、「理」には関係がないということだ。ということは、「ウチには関係ありません」という意味も含んでいる。
「理」に関係の有ることとなると、とことん相手を問い詰める。

韓国人が、人前で発言するときは、「理」を重んじる。
だから、街頭インタビューでは、子供でも必死で「理」のあることを言う。
それは模範回答じみたものとなるので、日本人から見れば、みんな似たり寄ったりのことを言っているようにみえる。

模範解答だと思う「理」は、芝居がかって堂々と大声で話すものである。だから討論となるとやかましくなる。しまいには声が大きい方が勝ちとなる。
日本人は、落ち着いて冷静に話したほうが説得力があると考える。
しかし韓国では、言葉=「理」は戦いのための道具とされる。
日本では、戦いの道具は刃物であり、それを使わないための道具が言葉であるだけだ。
日本の子供は「理屈をいうな」と育てられ、韓国の子供たちは「理屈を磨け」と育てられ、弁論塾に通わせられる。

そもそも、日本人は争いを避けるが、韓国は言葉が戦いの道具なのだから、しゃべれば基本的に争いばかりになる。

だから、他人に負けないよう、テコンドー教室も人気だ。
日本人は理屈が言えないから、事実のみ話す。日本政府も事実だけを話す。何かあっても「遺憾の意」を表明するだけで「理」を語れない。

韓国人は事実を無視しても、理屈は話す。

韓国人は、頭のなかでも「理」を重んじる。
ものを考えるときも「理」を考えるので、理屈さえわかれば、考えが終わった気になる。結果、早合点となりがちだ。
そして、何事も「~しなければならない」と考える。そして相手にそれを言う。
日本のアニメを見る韓国の若者が、「単に好きだから見ている」といえば、大批判を浴びてしまう。
だから、「韓国のコンテンツビジネス発展のために見なければならない」と言えば良い。
本当にそう言ったかどうかは知らないが、「コンテンツビジネス発展」という「理」を得たことによって、オタクたちも近年あまり批判されなくなったそうだ。

「理」の中には反日が含まれるが、韓国人は日本人をどう思っているのだろうか。
韓国では、次のような日本人観がステレオタイプ化しているという。
①日本人は非道徳的だ②日本人は金の奴隷である③日本人は性の奴隷である④日本人は権威に弱い⑤日本人は義理を知らない⑥日本人には情がない⑦日本人には主体性がない⑧日本には文化がない⑨日本には学ぶべきことはない⑩日本には手本にするべきことはない。

韓国では、「日本人に対して反抗心がないなんて、韓国人ではない」という言葉が学校や家庭などあらゆる場所で繰り返される。その一方、韓国人は「最近はもう日本に興味ありません」という。上記の⑨「日本には学ぶべきことはない」と⑩「日本には手本にするべきことはない」というのがその理由なだけであり、そう発言するのが「理」の表れた模範解答の一つだからだ。だから”最近”かどうかはあまり関係ない。

こういったステレオタイプと「理」で考えてしまうから、韓国と異なる日本の習慣を見ても、「日本ではそうなのですね」とありのまま普通に受け止めることができない。
結果、日本の文化や風習を、自文化中心的にしか見ることができない。ハッキリ言えば、見下してしまうのだ。

「理」があまり関係ない場面では、日本人と「気」の合う韓国人は当然いる。
しかし「理」の合う日本人はほとんどいないということになる。

④ ハン

韓国人には「ハン」という感情がある。
結構有名なので、韓国を読み解くキーワードのように使われたりもする。韓国人自身もそう思っている。
漢字で書くと「恨」となる。「だけど、単なる恨みではありませんよ」とよく説明される。
複雑な感情なのだというが、もったいぶっているだけにも思えてしまう。
だからあえてサッパリと説明したい。
「ハン」とは、憧れと恨みが混ざったものとされるが、他にも、妬み、幻想、悲哀、そして原動力も混ざったものだ。

堅苦しく言えば「ハン」は、「理を体現したい」という憧れだそうだ。
「理を体現する」と具体的にどうなるのか。権力や富が持てて、国や民族に貢献でき、人から尊敬されるのだ。

恨み、憧れ、妬み、幻想、悲哀、原動力は、一つ一つ見れば、どこの国にもあるし、誰しも一つくらい持っているだろう。

だから「日本人も似たようなものだろう」と言って韓国を擁護しようとする人もいるが、それこそ韓国人に失礼なのだ。
「ハン」があるのは決して悪いことではないし、上記が混ざった感情が「ハン」なのだから。

韓国語には、「あこがれ」という意味の固有語がないという。
憧憬という漢字由来語はあるが、「あこがれ」はない。「ハン」という語があこがれを吸収しているのだ。

韓国人にもストレートな恨みや嫉妬心はあるし、むしろきわめて強い。
ただし、韓国人は、時空を超えて嫉妬することがある。恨みが果たせなければ、いつまでも、それこそ死後にまで引きずる。こうなると「ハン」といったほうが良いだろう。
「ハン」が解かれないまま死んだ魂は冤鬼といわれ、生者をひどく苦しめるとされる。
日本にも昔は菅原道真などの怨霊がいたが、現代の一般人は怨霊にならないだろう。韓国には現代も、そこかしこに冤鬼がいる(とされる)。

こういう感情を持つからこそ、韓国人は日本人よりも粘り強いと言われる。いや、自分たちでそう言っている。
実際は、粘り強いというよりは、「しつこい」と言ったほうが的確だ。

「ハン」は個人のものとは限らない。みんなのものになると、「民族ハン」という。
「民族ハン」がよく現れているのは、韓国の新聞記事だ。
韓国に興味のある方ならご存知かと思う。
端的に言うと、「韓国が世界中に尊敬されて、チヤホヤされたい。」、「韓国の経済や文化が世界から羨ましがられるようになってほしい。」といったものだ。
それを邪魔している原因の一つは日本ということになる。何かがうまくいかない時は、日本のせい、日本のロビー活動のせいとなる。

韓国の歴史には「現実の歴史」と「あるべき歴史」のふたつがある。
「あるべき歴史」には、「韓国は半万年の歴史」から始まり、「李氏朝鮮は自力で近代化した」というものや「日本海は東海である」というものもある。
つじつまがあわないのだが、それでも「あるべき歴史」をしつこく求める。これも「民族ハン」の一つだと言って良いだろう。

「ハン」は解かなければならないのだが、個人でも民族でも、そう簡単には解けそうもない。
ではどうするか。解けない「ハン」を原動力として生きれば良い。
それもかなわぬならば、キリスト教に入るのも良い。「こころの貧しい人たちは、さいわいである」(マタイ5・3)からだ。実際、韓国ではキリスト教信者が多い。
どちらもない場合はどうなるか。「ハン」なんてものをずっと背負っていたら、精神衛生上良くなさそうだ。
実際、韓国には韓国特有の火病という病気もある。また、韓国人男性の71.2%が、1種類以上の人格障害の疑いがあるという。http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2003021117138
ソウル大学教授で精神科医のイ・ナミ氏は、韓国人を「12種類のコンプレックスのかたまり」と見るという。http://japanese.joins.com/article/738/169738.html?servcode=400&sectcode=440
「ハン」とは本来、美徳でもあるのだが、そうは思えない韓国人が増えてきたということだろうか。

(参考文献 小倉紀藏 『韓国は一個の哲学である』)

 

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